土肥 実平(どひ さねひら / どい さねひら )は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。
桓武平氏良文流中村宗平の次男。小早川氏の祖とされています。
相模国の有力豪族中村氏の一族で、足下郡(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町および真鶴町)土肥郷を本拠とし早川庄預所を勤め、父や弟の土屋宗遠と共に相模国南西部において「中村党」と称される有力な武士団を形成していました。
源頼朝公を支えた郷土の英雄です。
石橋山の合戦では、平氏方3千余騎、源氏方三百余騎での戦いに敗れ「しとどの窟」に身を隠し、真鶴岩海岸から安房へ船出した際の話は『七騎落』として語り継がれ、能楽でも人気の演目となっています。
土肥一族の墓




城願寺本堂左方の土肥実平一族の墓所には、66 基の墓石があり、嘉元2 年(1304)7 月の銘のある五層塔や、永和元年(1375)6 月の銘のある宝筺印塔をはじめ、卵形墓や五輪塔など各種の墓型があります。一墓所に各種の墓型がそろって見られるのは珍しく貴重であるといわれます。
毎年4月の第一日曜日には、菩提寺である本寺で土肥一族墓参と和平祈願法要『土肥祭』が行われ、町内では武者行列が行われます。
約200 年前に幕府の命を受け地図製作のために全国測量中の「伊能忠敬測量隊」一行が城願寺に立寄り土肥氏墓地を参拝しました。
それは前日に昼休憩をとった門川村名主冨岡与次右衛門から「老齢になってからも第二の人生に努力する伊能忠敬殿も冨岡の祖、土肥実平と同じく敬服する。」と参拝を勧められたからです。
この3箇所には湯河原町が史跡として本小松石の標識を立てました。
伊能忠敬は吉浜村名主の向笠彦左衛門宅に宿泊して、城願寺の由来、土肥実平の逝去年月日、年齢、戒名などを詳しく『測量日記』に記録しています。