山門・仁王門


柏槙(ビャクシン)


土肥實平手植えと伝えられている『推定樹齢850年』のビャクシンは、参道を登り切った境内に立っています。
1939年(昭和14年)9月7日に国の天然記念物に指定されてります。
平安、鎌倉時代から寺の歴史を見守ってきた『柏槙』は、柏槙(びゃくしん)パワーが宿るパワースポットととして『信頼・友情・恩義』を授かると云われています。
七騎堂


【七騎とは】
伊豆に流されて20 年間余、流人の生活を送っていた源頼朝が、源氏再興の旗挙げをしたのは、約850 年前の治承4 年8月23 日。頼朝は石橋山(小田原市石橋)に陣をしく平家方の大庭景親軍三千騎と、手勢三百騎で対戦したが、たちまち敗れて土肥の杉山に逃れ、山中の倒木穴や洞窟に身を隠し、山中の堂宇に隠れるなど、大庭軍の捜索を逃れて、8 月28日に岩村の海岸から小舟に乗り、わずか頼朝ら七騎で房総半島へ落ち延びました。狂言でも「頼朝七騎落ち」と呼んでいます。
【主従七騎】
源頼朝、土肥次郎実平、安達藤九郎盛長、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義実、田代冠者信綱、新開荒次郞実重(義父の新開次郎忠氏とも)
【七騎堂建立】
頼朝・実平らの決起により平家が滅び、鎌倉幕府が成立することで、武家政治の時代が開かれ、日本歴史を転換させた最初の戦いが、今の小田原から湯河原までの土肥郷でした。
老齢ながら長い戦いで活躍したのが、湯河原駅前に居館を構え、土肥郷の土肥次郎実平であったことから、土肥実平顕彰団体『土肥会』が七騎像制作を彫塑家亀貝保と恩師小倉右一郎に依頼して、1953 年4 月8 日に本堂内に納められ開眼供養をおこないました。
さらに20 年後、境内に七騎堂が建立され1974 年3 月5 日に落慶供養と焼亡の舞保存会により遷座がおこなわれました。
周囲に力石郷水の「頼朝の陣立石に飛花落花」句碑、頼朝・実平の腰かけ石と伝わる石があります。
源頼朝・土肥実平 腰かけ石


浩宮徳仁親王ご見学記念碑


文殊堂(もんじゅどう)・釣鐘堂(しょうろうどう)


智慧の仏とされる文殊菩薩。学問の神として崇められる天神さま菅原道真が祀られています。
明治政府の学制発布を受けた際に学舎が無く、この文殊堂が仮校舎として利用されました。
伊能忠敬測量隊 土肥氏墓を参拝記念 石碑


約200年前に幕府の命を受け地図製作の為全国測量中の「伊能忠敬測量隊」一行が城願寺に立寄り土肥氏墓地を参拝しました。
その際、吉浜村名主の向笠彦左衛門宅で、城願寺の由来、土肥実平・遠平の逝去年月日、年齢、戒名や城願寺に参拝したことを「測量日記」に記録しました。